映画「怪物」を鑑賞した

自分のことをわかっているようでいて、もっとも大切なところはわからない。


例えば初恋。小さい頃、どうしてこんなにもひとをすきになってしまうのか、不思議でしかたなかった。
「なんでこんなにドキドキするのか?」
自分、いつから変わったのかわからないが、いまでは当時のようなときめきはなくなっている。
この映画は、こどもの抱える孤独の悲しみ、不安や怖れに対峙しながらも、ひたむきに夢ある楽しい世界を描いている。その姿にこみあげるものが残る。そんなノスタルジーな思いが琥珀色の写真とともに甦る映画だ。

本作は、ある時間の流れというプロセスを3つの視点から描いている。
ひとつはシングルマザーで、こどもを溺愛する母親の視点。
下草の生い茂る、深い森のなかをあいている子どもの足(象徴的イメージ)から始まるオープニング。なんらかの隠喩であろうか? ことが起きようとしている怪しくも不穏な空気が漂う。

シーンは一転。

自宅の窓から火事をみている母親と子供。
自身、火事を見慣れている親子の演技に違和感が残った。
普通に花火でも眺めているかのようなのだ。
常識的な大人ではなさそう。
日常風景のシーンから次第に母親は不可解な行動をとるわが子への一方通行な眼差しや決めつけ、思い込み(水筒の泥水、髪をきる、車から飛び降りる、廃線跡地への失踪など)からわが子がいじめられていると思い込でゆく。
ふとシーンの描き方に意識が移っていく。どのシーンも描き方がユニークである。
映像を観るとはどういうことかと示唆してくれる。
作中で結局何が起こっているのか?
観る者に腹に落ちない居所の悪さのみが残る。(ただ、不穏さ、しっくりこなさ、腑に落ちない)すっきりしない、遺物を飲み込んだあとのような感覚がつづく。どこでカタルシスされるのか?
本作では、母親の手前勝手な思い込みをもとに行動を起こし、学校にのりこんでいく。
が、事務処理のような非人間的な対応をする、校長、教頭、担任に、母親は人間としての対応を訴え、怒りを爆発させる。
ここに描かれているのはどこにでもころがっていそうな教育現場である。
ことを大きくしたくない校長、モンスターペアレントを怖れる教頭。
ことなかれの対応を貫きとおそうとしている教育者たち。
どこにでもいるであろう大人たち。
母親の視点からの描き方により問題をかかえる学校、担任対親の構図が示される。

一転、唐突に担任からの視点に移行し、担任と生徒の関係が浮き彫りにされる。
すると自身が勝手に描いていた担任像が剥がされていく感にしてやられる。
「この担任に、こんな一面もあったのか!?」と。
いままである一面でしか見ていなかった思い込みにはっとさせられる。
ひとは観たいようにしか見ようとしないものだ!
本作の描き方に視点がうつる。所作、セリフ、音、背後の音、子どもの遊び、美術、装飾、効果音はクリエイティブでアイデアに富んでいる。シーンごとにしっかり練られているのが伝わってくる。
ただ安藤サクラの演技(”万引き家族”は圧巻だった)の一貫性には、???。つかみきれていないのか?
というのは、作中では火事を平静に眺める、モンスターペアレントの役と理解したが、彼女の一部の演技は狂気性は希薄であり、常識のある情愛深い母親に落ち着いている。
敢えてそのように演技したのか?
担任の視点に話をもどそう。
ガールズバーに通っているという噂、信頼関係の薄い恋人との関係をもつ担任。
ささいなトラブルやすれ違いによりひとりの生徒に体罰をしている容疑をかけながら、さらなる誤解をつみ重ねていく。
編集上、ストーリー性を極力なくし、こうだからこうなったという安易な図式を排し、コラージュ風に描くことで、ひとりひとりの観る側に理屈やストーリーでなく、感じることを求めてくる。新しい映画のスタイルを見た感が心地よい。
結局、自分を守るため、友達をまもるためのこどもの嘘言により、学校vs担任、生徒vs担任、親vs担任、社会(マスコミ)vs担任、二項対立という構図や組織というシステムに抗うこともできず、やってもいない体罰を認め、担任は辞職に追い込まれていく。
母親の視点ではわが子がいじめられているという関係図で描かれていたが、実はわが子は自分を守るため、友達を守るために苦しんでいたのだ。
しかもいじめられている子に寄り添い、守っていたのである。
★そして、いじめられている友達に好意を寄せていることに気づき、戸惑い、自己嫌悪に苦しんでいく。
自分をコントロールすることもできず、不可思議な行動へ突き動かされていく。
★いじめられっこも、その子のやさしさや苦しさに寄り添いながらふたりの優しさがありのままをうけいれ、心満ちる世界へと誘いあっていく。
ふたりは誰にも打ち明けられないほどのガラス細工のような優しさを抱えたまま、ある独自の行動をとりつづける。ライターで物を燃やしたり、猫の死骸を見せたり、廃線跡地の秘密基地を教えたり、ゲームやパチンコで遊んだりと。
しかもいじめられている子を守る行為により、反対にいじめている嫌疑を背負うことになる。

この映画はいくつかのテーマも孕んでいる。
LGBTQの性的マイノリティ問題、たまたま再読していた「仮面の告白」に一部似たシーンを思い出す。自我肥大した思い込み、いじめ、体罰など。そして、結末にむけ、3つ目のこども側からの視点により、徐々に真相が詳らかになってくる。こども世界の純粋で、それでいて心優しくて、残酷で、孤独でいながらも子どもなりに喜び、ファンタジーに満ちたこども世界の祝祭には心救われる。
森の中の暗闇から光溢れた原っぱをふたりが光につつまれながら疾駆するシーンはこみあげるものがある。
自分すら知らない深い深い森のような深部から人間の奥深さ、複雑さ、奇怪さを潜り抜け、希望ある前途ある未来を垣間見せてくれる。

エンディング近くに心の傷をかかえている校長からある言葉が告げられる。
「だれかにしか手に入らないものはしあわせっていわない」のセリフに強いメッセージが凝縮されている。
幸せは、ひとりだけで手にできるものではなく、みんなが手にすることができてはじめて幸せといえるのだから。