盆踊り巡り紀行 2023

●8月12日   下北沢、中野

今日もどこかの盆踊りへ !

ノートレ、オープンマインド、貧富格差、年齢、肩書き関係なしのフリーダムな世界へ❗️

東京音頭、炭坑節、しもきた音頭、ドラえもん音頭、ダンシングヒーロー 完璧! 

 

●8月15日   浦安

ひとつの振付をおぼえきるとアレンジを加えたい欲求をおさえきれず即興で自分の好きな振り 

(例えば月[月をつくって見上げる]、波[掌をひらひらさせる]、回転[回る]とか…)をいれたくなってくる。

すると周囲には好き勝手に踊っているようにみえるのだろう?

近くにいる、踊れない? 子ども、若者、子連れママさん、パパさんが 

ひとりまたひとりと輪に入ってくる。思い過ごしなのか?

自己意識が拡張していくのがわかるから面白い。

 追伸:今年から創作紙芝居を再開しました。

 

みつわ台 制覇!

 

●8月18日   都町

盆踊りと一言でいってもその地域の住民が集い、踊るわけである。

地域色が垣間見れるのも楽しみの一つだ。

昨夜の会場は広く、キッチンカー(スペースがなくなる)もなかったのは良。

が、お偉いさんの紹介、挨拶(町内会長、県議会議員、市議会議員、国会議員など)の

儀式時間が長く、踊る時間は正味1時間弱ぐらいだった。

しかも曲がなってもなかなか輪ができず、最初のほうのダンシングヒーロー

(唯一おはこ曲)なんて、なかなか踊る人が集まらず、

おわって周囲を見渡すも…ひとがいない。

向こう側には何人かいた気もしたが。。。

休憩時、やたら視線を感じたのはあのことと関係あったのかなかったのか?

(先日の会場は玄人しかしらない曲が多く、ほとんど即興で踊ってやった)

 

●浜野

1時間ほどの遅れで休憩中に到着するも

櫓ない!

近くの人に確認するもやはりそうらしい。

休憩中、仕方なく、会場を散策する。

懐かしさに誘われ露店でラムネ購入。

栓をあけるとき人差し指を軽くきってしまった。

「けっこう出血しているねぇ…」とお優しい女性店員さんが

バンドエイドをわざわざ探してきてくれて、

手当てしてくれた。ありがとうございました。

しばらくするとどこからともなく曲らしき音色がきこえてくる。

これが踊りの曲?なわけないだろう?

本部テントのなかにいたスタッフに

「なんという曲ですか?」と訊ねると

めっちゃうけていた。

隣のお堂から流れる読経だったのだ。

抽選会→子どもたちへのお菓子配布と休憩時間は過ぎていく。

 

踊りは深い。たかがと思うことなかれ。

わからない振りをカバーするため踊り子

さんの間に入ることにしている。

その玄人の美人踊り子さんに’

『楽しそうに踊ってますね。素敵ですよ』と。

軽くいじられたかなと…

あの微笑みからよしとしよう。

それでも踊りつづける胆力と想像力の勝利に乾杯🍸️✨🍸️

 

●23,8,20

湾岸エリアの盆踊り会場。  真砂

巨大マンション群が建ち並ぶエリアだけあって

家族連れの人・人・人。

「ここはグルメフェア会場か!」と見間違うほど

多くのキッチンカーが集結し、櫓周辺を囲んでいた。

そのためか心なしか踊りの輪も小さく感じられる。

盆踊り開始早々、若者は少なく、

場が温まってくるとひとりまたひとりと

輪に加わっていく様子を横目に踊るのもこれまた一興。

今夜のテーマはストーリー仕立てで感情を込めつつ踊れるか?

ちなみに初の盆踊り版の”恋のフォーチュンクッキー

は老若男女問わず盛り上がる!

 

リズムって?

音と音の間に存在する無音(裏の音)。

ひょっとして心の音か? だとしたら

表の音の強弱、高低、余韻の長短に

より心の音もまた変化するってことか?

さらに表の音と表の音の間にひとつ音を刻めば、

また裏の音がうまれ、

そのまた表の音と表の音の間にひとつの音を刻めば

そのまたチョー短い裏の音がうまれる。

そこで”はっ!”とする。

ひとつの音が価値を持つのは、

音のしない裏の音の価値を為しているってことか?

それを際限なく繰り返していくと

点から線のような長音(波)へとつらなっていくのか?

「まじめか!」ひとりつっこみをいれつつ、

こんなこと、始まるまでの空白の時間、物思いにふける。

”余白の美”とされる日本画が脳裏をよぎる。

※写真は巨大マンション群に出没した盆踊り会場

 

●8月27日     地元の盆踊り。

さまざまなイベント盛りだくさんであったが、盆踊り時間は短かった。

が、プログラム見る限り、市民参加型の内容になっており老若男女(とくに子供、若者)が楽しめ、

地産地消的なアットホーム感は充実していた。

そんな中でまた踊ったわけである。

今回も中心メンバーは玄人の踊り子さん。

そして地元高校生のダンス部で構成されており、一般参加もOKというアナウンスで躊躇することなく、

”待ってました!”とばかりに結界(自身が勝手に名付けた、傍観者とパフォーマーとの境界線)をまたぐ。

この結界をまたぐと世界が一変する!

これは経験したものでないと、わからない。

が、誰にも一度や二度経験のあることかとも。。。

気持ちいい!

あるいは、価値観のブレークスルー? 圧から身体の自由な感覚を体感する?

突然、列の前に同年齢ほどのミドルのお父さんが入ってきた。

が、 なぜか1曲だけ踊って軽い笑み残し、立ち去っていった。。。

どうしてかは。。。わからない。。。

 いったいあの笑いはなんだったのか? 

それでも胆力でもって踊りつづける。

すると今度はアフリカ系外国人が「隣で踊ってもいいですか?」と入ってくる。

かたことの日本語で「あなたとなら踊れそう…」的なことをもらしていた。。。

 やはり安心できるのだろう。

 

そして、本日のいちばん印象に残った出来事が起こったのだ!

ほとんど十八番となりつつある”千葉踊り”を 

勝手なストーリー仕立ての振付でおどっていると

和服姿のおやじが私の隣で踊っているではないか?

しかも肩を組んできたぞ!

だれだ?ついに変人が変人を引き寄せてしまったか?!

おそるおそる横目でみやると町内会長のiくんだった!

すぐにいなくなったところをみると

「会長、立場がありますんで…」

とかなんとかいわれて、だれかに止められたのだろうか?

でも、気づいてくれ、一瞬でもいっしょに踊ってくれただけでも感無量だ!

踊る指先も伸びてくるってもんだ。

そのあともイベントはつづき、おおとりでその同級生率いるバンド(Daddy's)が、

コロナ後のイメージチェンジを果たした、大人の演奏を披露してくれていた。

後日に踊る画像を友達が撮っていてくれていて、送ってくれた。

ぶれぶれですが、ありがとう!

浦安にて

下北沢にて

真砂にて

地元にて

映画「怪物」を鑑賞した

自分のことをわかっているようでいて、もっとも大切なところはわからない。


例えば初恋。小さい頃、どうしてこんなにもひとをすきになってしまうのか、不思議でしかたなかった。
「なんでこんなにドキドキするのか?」
自分、いつから変わったのかわからないが、いまでは当時のようなときめきはなくなっている。
この映画は、こどもの抱える孤独の悲しみ、不安や怖れに対峙しながらも、ひたむきに夢ある楽しい世界を描いている。その姿にこみあげるものが残る。そんなノスタルジーな思いが琥珀色の写真とともに甦る映画だ。

本作は、ある時間の流れというプロセスを3つの視点から描いている。
ひとつはシングルマザーで、こどもを溺愛する母親の視点。
下草の生い茂る、深い森のなかをあいている子どもの足(象徴的イメージ)から始まるオープニング。なんらかの隠喩であろうか? ことが起きようとしている怪しくも不穏な空気が漂う。

シーンは一転。

自宅の窓から火事をみている母親と子供。
自身、火事を見慣れている親子の演技に違和感が残った。
普通に花火でも眺めているかのようなのだ。
常識的な大人ではなさそう。
日常風景のシーンから次第に母親は不可解な行動をとるわが子への一方通行な眼差しや決めつけ、思い込み(水筒の泥水、髪をきる、車から飛び降りる、廃線跡地への失踪など)からわが子がいじめられていると思い込でゆく。
ふとシーンの描き方に意識が移っていく。どのシーンも描き方がユニークである。
映像を観るとはどういうことかと示唆してくれる。
作中で結局何が起こっているのか?
観る者に腹に落ちない居所の悪さのみが残る。(ただ、不穏さ、しっくりこなさ、腑に落ちない)すっきりしない、遺物を飲み込んだあとのような感覚がつづく。どこでカタルシスされるのか?
本作では、母親の手前勝手な思い込みをもとに行動を起こし、学校にのりこんでいく。
が、事務処理のような非人間的な対応をする、校長、教頭、担任に、母親は人間としての対応を訴え、怒りを爆発させる。
ここに描かれているのはどこにでもころがっていそうな教育現場である。
ことを大きくしたくない校長、モンスターペアレントを怖れる教頭。
ことなかれの対応を貫きとおそうとしている教育者たち。
どこにでもいるであろう大人たち。
母親の視点からの描き方により問題をかかえる学校、担任対親の構図が示される。

一転、唐突に担任からの視点に移行し、担任と生徒の関係が浮き彫りにされる。
すると自身が勝手に描いていた担任像が剥がされていく感にしてやられる。
「この担任に、こんな一面もあったのか!?」と。
いままである一面でしか見ていなかった思い込みにはっとさせられる。
ひとは観たいようにしか見ようとしないものだ!
本作の描き方に視点がうつる。所作、セリフ、音、背後の音、子どもの遊び、美術、装飾、効果音はクリエイティブでアイデアに富んでいる。シーンごとにしっかり練られているのが伝わってくる。
ただ安藤サクラの演技(”万引き家族”は圧巻だった)の一貫性には、???。つかみきれていないのか?
というのは、作中では火事を平静に眺める、モンスターペアレントの役と理解したが、彼女の一部の演技は狂気性は希薄であり、常識のある情愛深い母親に落ち着いている。
敢えてそのように演技したのか?
担任の視点に話をもどそう。
ガールズバーに通っているという噂、信頼関係の薄い恋人との関係をもつ担任。
ささいなトラブルやすれ違いによりひとりの生徒に体罰をしている容疑をかけながら、さらなる誤解をつみ重ねていく。
編集上、ストーリー性を極力なくし、こうだからこうなったという安易な図式を排し、コラージュ風に描くことで、ひとりひとりの観る側に理屈やストーリーでなく、感じることを求めてくる。新しい映画のスタイルを見た感が心地よい。
結局、自分を守るため、友達をまもるためのこどもの嘘言により、学校vs担任、生徒vs担任、親vs担任、社会(マスコミ)vs担任、二項対立という構図や組織というシステムに抗うこともできず、やってもいない体罰を認め、担任は辞職に追い込まれていく。
母親の視点ではわが子がいじめられているという関係図で描かれていたが、実はわが子は自分を守るため、友達を守るために苦しんでいたのだ。
しかもいじめられている子に寄り添い、守っていたのである。
★そして、いじめられている友達に好意を寄せていることに気づき、戸惑い、自己嫌悪に苦しんでいく。
自分をコントロールすることもできず、不可思議な行動へ突き動かされていく。
★いじめられっこも、その子のやさしさや苦しさに寄り添いながらふたりの優しさがありのままをうけいれ、心満ちる世界へと誘いあっていく。
ふたりは誰にも打ち明けられないほどのガラス細工のような優しさを抱えたまま、ある独自の行動をとりつづける。ライターで物を燃やしたり、猫の死骸を見せたり、廃線跡地の秘密基地を教えたり、ゲームやパチンコで遊んだりと。
しかもいじめられている子を守る行為により、反対にいじめている嫌疑を背負うことになる。

この映画はいくつかのテーマも孕んでいる。
LGBTQの性的マイノリティ問題、たまたま再読していた「仮面の告白」に一部似たシーンを思い出す。自我肥大した思い込み、いじめ、体罰など。そして、結末にむけ、3つ目のこども側からの視点により、徐々に真相が詳らかになってくる。こども世界の純粋で、それでいて心優しくて、残酷で、孤独でいながらも子どもなりに喜び、ファンタジーに満ちたこども世界の祝祭には心救われる。
森の中の暗闇から光溢れた原っぱをふたりが光につつまれながら疾駆するシーンはこみあげるものがある。
自分すら知らない深い深い森のような深部から人間の奥深さ、複雑さ、奇怪さを潜り抜け、希望ある前途ある未来を垣間見せてくれる。

エンディング近くに心の傷をかかえている校長からある言葉が告げられる。
「だれかにしか手に入らないものはしあわせっていわない」のセリフに強いメッセージが凝縮されている。
幸せは、ひとりだけで手にできるものではなく、みんなが手にすることができてはじめて幸せといえるのだから。