「天と地と」~あるスケーターの生きざま~
「すごいぃ~こんなの初めてぇ~!」
連日、一口数万円もする料理を情報番組内でレポートしている国もあれば、内戦や餓死で多くの子どものいのちが失われている国もある。
この世には天国もあれば地獄もある。
そういった世界のなかで、いま、われわれは生きている。
「数字や結果のみでひとを評価するな!」
「いま生きている、そのことがすばらしいことなのだ! 」と。
そう氷上で彼は表現したのではなかったか?
北京オリンピックで5位入賞の羽生結弦選手は、腰痛、右足関節靭帯損傷による満身創痍な状態から
彼なりに考えぬかれた末の自己表現だったのか?本当のところはわからない。
そうであったにしろ、結果的に羽生弓弦なりの自己表現であったことにかわりはない。
手前勝手な推察がゆるされなら、彼がつたえたかったことについて考察してみたい。
昨今のオリンピック開催国による過剰な商業化、それによる結果重視主義への警鐘ともとれまいか?
結果(得点、数値)のみが評価対象(競技上仕方ないが)とされ、生きざま、日々の思い、葛藤など どう生きているのか? といったプロセスに目を向けようとしない一部マスコミの報道姿勢に対する痛烈なアンチテーゼか?
「『何回も何回も体を打ちつけて、本当に死にに行くようなジャンプだった』っておっしゃってるんですね。今回の曲がNHKのあの『天と地と』ですよね、上杉謙信を描いた。本当に戦国武将のような気持ちだったんじゃないかなというふうに思うんですよね。ネーサン・チェンが羽生は『神の領域に達してる』と言ったけど全くその通りで、ちょっと別次元の世界で生きてる。アスリートでも特別な存在のような気がしますね」
(二宮清純氏による発言)
荒川静香の取材に対し、「全部の物語を演じ切れた」、
また、
「もう右足の感覚ない状態でやっていましたけど、でもだからこそ出来たのかなって思いますし、本当に体のケアも含めて色々な方に力を頂いてそしてたぶん色々神様にもお力を頂いて、やっと僕のあの演技があったと思うので、本当みなさんに感謝したいです」
「あのふたつの失敗があってあの4回転(4回転アクセル)があってだからこその「天と地と」なのかなって思っています。最後までぼろぼろじゃなくてちゃんと滑りきって全部の気持ちを全部の物語を演じ切れたなって思っています」
以上、これら「天と地と」の演技に言及した箇所からその答えとなるヒントが隠れている。
また、以前の記者会見で「応援してくれる、すべてのひとに夢と希望を与えられたら…」という趣旨の発言から
この世には天国のような理想世界もあれば、地獄絵のような闇世界が存在している。
かつてピカソが地元の町の惨状を描いた「ゲルニカ」のごとく世界がそれだ。
あの日の彼のパフォーマンスは、ひとりのスポーツマンというより、ひとりのアーチスト(演技者)として、現代のピカソのごとく、バンクシーのごとく、ひとつのメッセージを伝えていた。
人生を賭けて理想と希望の世界(天国)とありのままの現実(地獄)を表現したのではなかったのか?
「俺の生きざまをみてくれ!」
「努力が報われるときもあれば、報われないときもある。それが現実であり、人生なのだと…。
そしてこれからも生き続けていく限り、人生ドラマはつづいていくのだ」と。
「生きているってことは、なんと尊く、美しいものなのか!」
コロナ禍、リストラにより、こころ病み、幼児を虐待する親がいる。
人間関係不全、いじめの負の連鎖により、将来への不安から希死念慮する若者もいる。
当たり前のように、ことさら勝つこと、成長すること、成功すること、を強いられている社会にあって、
応援歌なんかでなく、人生を賭して、ともに厳しい現実と闘いながらも、ときに挫折し、再び立ち上がり、ありのままのリアルな姿をみてくれ!と。
そっと手を差し伸べてくれるのは、静かに寄り添ってくれている温かな思いだ!
忍び寄る、日本の不条理
袋小路に迷い込んだようなこころのざらつきを背負い、
なんとかかんとか脱出する。
見渡せば、見知っていた景色でなくなっている。
駅改札前では長身で髭面の国籍不明な若者がギターを
かきならし意味のわからない歌を独唱している。
今、コロナ禍中にあって、新開発途上の駅周辺の小路を
抜けるとある感慨深さが身に沁みわたる。
もう気分は 色即是空 空即是色。
一昨日、都内小田急線下北沢駅近く。
ザ・スズナリにて「天神さまのほそみち」観劇。
作別役実 演出坂手洋二
コロナ禍中での初観劇となる。
時間さえあったら、ゆっくり駅界隈をぶらつきたい思いに
こころのポーズオン。
(別役さんといえば、学生時代、足繁く利用していた
杉並区の中央図書館内でよく見かけた。《長身でもあり、
よく目立った》しかも思い過ごしかもしれないが、
よく視線があった)
●不快さから愉楽へ、共するそのエナジーとは?
冒頭シーン。男1が通りがかった女1に「トラが通りましたか?」と意味不明なことを執拗かつ病的なまでに問いづづける。女1の弟でもある男2が現れ、あとでつぎつぎに登場するすべての人物たちにかかわらなくていいのにかかわりだしていく。
乱放射される激しい言葉の応酬は、カタルシスを伴う
ケースもあれば不快さも伴うる。
前半部のやりとりは後者といっていいが、どちらにしても
言葉の発するエナジーの激烈は間違いない。
その不快さは、斑点模様の生命体を目撃したときの衝撃の
ようでもあり、黒板に爪をたてたときの超音波のようでも
ある。
ひとりまたひとりと集まり、ひとりよがりな激しい言葉を
くり広げれていく様相は、ある予兆を孕みながら、
少しずつ地獄絵図が塗り重ねられていくよう。
そんななか、ひとりの女が、自分の間で、自身の世界観
で、ぼそっとぼそっと発する思いやりある言葉が泥沼に咲く睡蓮のように
印象的だ。
それ以外は、ひとりよがりの世界が展開されていく。
自分のことより他人の世話に終止する男2は、
ひとつも悪いことはしていないのに、ストレートに思った
ことがいえず、周りから勝手にいろいろな思いを
ぶつけられることで、いつのまにか自分の事情が
変わってしまう。
あるいは自己保身のため相手への過剰な気遣いばかりし、
はっきりストレートに自分の思いを伝達しえないから
事態がややこしくなっていく。
次第に周囲とのやりとりから悪者のような役回りを演じ
ながら、ひとつも悪いことなどしていないのに、
周囲の身勝手さのせいで自分が思ってもいない
悪者に成り下がってしまう。
みなそれぞれが、相手への思いやりに欠け、自身の主張
ばかりをいい、コミュニケーション不全に陥っている。
早く手をうっておけば、混乱などせず、リスク回避できる
のに、ある理由から先延ばしし、事態を不条理に陥らせて
しまう。
一連の人間行為を俯瞰すると滑稽に思えてくるが、
実はわれわれが日常的に目にする光景でもあることにきづかされる。
そんな生き方の下手さ加減を単純な図式で提示してくれて
いる。
●不条理の真相
横道はそれるが、見ながら重なったのが、最近よんだ
「組織の不条理」菊澤研宗著。
なぜ不条理が組織内で発出するかについて言及している。
著者は、限定合理性(すべての人間は情報を収集、処理、
表現する能力が限定されており、その能力内でしか合理的
に行動できない)の仮定のもとに現象を分析している。
合理性と効率性と倫理性は必ずしも一致せず、
それゆえ合理的でありながらも不正を伴ったり、合理的
でありながらも非効率であったりするというのだ。
にもかか
わらず、人間はときにあたかも神のように完全合理性の
下(批判性の伴わない)におかれている時に不条理な採択
してしまうという。
例えば、第二次大戦の戦時下で日本軍がガナルカナル戦で
選択された白兵突撃戦術について論考は興味深い。
この奇襲戦術は軍刀を振りかざし、大声をはりあげながら
夜襲するというもの。当時、食糧、兵器などの物的資源
に限りがある日本軍がとっていた精神訓練を基本としながら
、日本軍のデファクトスタンダードでもあり、完全
に日本兵の脳内がロックインされていたともいわれている。
しかも、
失策にもかかわらず、三度も同じ戦術がとられた背景に、
作戦
の変更は、巨額のコストを覚悟しなければならない状況下
にあったとも。
それが上記のいう、合理性と効率性と倫理性は必ずしも
一致せず、それゆえ合理的でありながらも不正を伴った
り、合理的でありながらも非効率であったりするといわ
れる所以である。
つまり、不条理な状況下に当事者からみれば、ある種の
合理性のもとになされており、すでに戦術変更できない
ほどの多くのリスクが発生し、すでに軍内において批判
性をもてなくなっていたというのだ。
コロナ禍での政府のくり出られる政策にもあい通じること
が言えやしないか?
話をもとに戻そう。
小さな不快さから派生したエナジーが、徐々に多数を
巻き込み、カオスと化し、そして、いつの間に不穏な
終末を期待している自己の暴力性に無意識に気づかさ
れる。
被害妄想的に見ず知らずのものたちに敵意を感知して
しまった途端、先制的に自己の暴力性に戸惑っていく
ように。
別役作品は、自身のことしか考えないものたちによ
って正常な一般人が精神の破綻をきたしていくさまを
分かりやすくシンプルにみせてくれている。
コロナ禍中にあって、精神のほどよい浄化作用になり
える作品といえるだろう。
次々と不条理な政策がくりだしつづけている今。
下北沢駅前の乱開発と不条理劇、そしてさっきまで風
にのっていた弦の音色。まだ不条理劇のエンディングがつづいているような気がした。
いま、袋小路を元気のない野良猫がゆっくり横切っていった。
駅改札前にいた長身で髭面の国籍不明なストリートミュー
ジシャンの姿は消えていた。
※↑これは、以前他のブログで掲載したものを再掲したものです。
田中泯 名付けようのない踊り を鑑賞した
いのちの記憶に触れたような、そんな安堵につつまれる。
集中必至のオープニング。
潮騒の波音を背景に、海浜の砂の映像パンから始まる。
いのちの発源地、大海。
夕日にきらめく波頭シーンから一転、
近代器機と無縁の黄白土色に塗られた密集した土壁風の家々へ。
ポルトガルのサンタクルス。
欧風の田舎町で見られる住居群の間に貫かれるように、
奥へ奥へとまがりくねり、遠近で細くなっていく石畳上
で蠢いているダンサーがひとり。
繊細な動きをともないながら触れるか触れないかの距離をたもちつつ、
石壁を這うように、縫うように、一匹の蜘蛛のように
すべてと同化していく。
詩的な映像美の連続性のなかでひときわ興味をおぼえたのは、
”わたしのこども”(こどものころの内的世界を自身が呼んでいた)
シーン。
あるスタイリッシュな映像から生温かで肉筆感漂うアニメーションにより、ここぞというタイミングで寓意の世界を垣間見れたことの悦び。
一瞬温かな皮膜に包まれる。
”大丈夫”優しいつぶやきが自身の脳裏をよぎったのは、なんだったのか?
ある映像の狭間にさしはさまれる異質な映像の連続。
コラージュのごとく、徐々にひとつの世界を紡いでいく。
終章な”最後の踊り”は
踊ることの自身の喜びを伝えるものとうけとった、福島の被災された廃墟と化した住居に居る”蜘蛛”との饗宴シーン。
蜘蛛と一体となる、在ることの喜び、踊る悦び、
そして、生きていることの歓び。
夕日の光の粒々が一面にまき散らされたような
大海を背景にひとつの人影が夕空に広げた両手を
ゆっくりと日没の闇とともに頭上で重なり、
そして、自身をつつんでいく。
再びいのちの記憶がよびさまされる。
いのちはいつかは消え、そして再び生かされていく。
いのちのリーンカーネーション。
※↑これは、以前他のブログで掲載したものを再掲したものです。
■
10月16日。
亥鼻のセブンで女店員さんと久しぶりに再会した。
ハロウィーンのとんがり帽子をかぶったいたので、
似合っているねぇ~、かわいい、かわいい~と。
笑顔が見れた。
たまたまググっていたら、
仏教の悟りへの道を教える波羅蜜の修行についてのサイトを見つけた。
その修行には、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧の六種があり、これらを六波羅蜜(ろくはらみつ)という。
その中でも人に財を与え、法(真理)を教え、
安心を与え、完全な恵みを施すという布施。
それを別名檀那波羅蜜ともいわれる。
その布施行の中にも、財施、恐怖や不安を取り除き、安心を与える”法施”と、
法を説き、与える修行を実践する”無畏施”がある。
”法施”とは、
迷い悩んでいる人を救い、安心できる世界へと導くことをいうらしい。
ということは、一般人でも、豊かな見識や智慧のある人は、物やお金はなくても、人にものを教えたり、導いてあげたり、拘(こだわ)りや囚われから離れる方法などを教えてあげることができるということか?!
ということは、だれでも法施はできるということだ。
また、悩んでいる方がいれば、他人の体験話を聞くだけでも救われるだろうし、
実生活の暮らしについての知識を教えることもそう。
例えば、おいしい料理のレシピや編み物の仕方、パソコンの使い方などを教えてあげても法施なのである。
自分にできる布施を実行して、人の役に立つことが肝心なのである。
ただ施すときの心持も大切なのを忘れてはならない。
自分のこと(自慢など)なく、純粋に相手のことをおもんばかって、施して差し上げる。
もうひとつ”無畏施”とは、
”無畏施”というのは、人の悩みや恐れを取り除き安心を与えること。
自分の体を使って労力を提供したり、いたわりの言葉をかけたり、優しさのある微笑で人と接したりすることもそう。
雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)の中で、財力もなく知恵も無いという人の為に、次に掲げる『無財の七施』を説かれている。
・眼施(がんせ) 優しい眼差しで人に接する。
・和顔施(わがんせ) 和やかな明るい顔で人に接する。
・言辞施(ごんじせ) 優しい言葉をかける。
・身施(しんせ) 身をもって布施する。
・心施(しんせ) 心の底から人を思いやる慈悲心を施す。
・牀座施(しょうざせ)
例えば、先輩やお年寄りに自分の席を譲る行為。
・房舎施(ぼうじゃせ) 例えば、困っている旅人に一夜の宿を提供したり、休憩の場を提供したりする行為(昔はお遍路さんなどに対して行われていた)。
その修行による悟るとは、無我や空、つまり、無差別智(むさべつち)の立場に立ち、個人レベルの幸・不幸の視野を超越して、宇宙的な観念の世界観を持つことらしい。
これを”真理に目覚める”というらしいが、この境地に達しているものなどいるのか?
いたとしても、日々移ろうゆくもので、自己が意思意志をもってしないと堕ちていくのではないか? と自分自身は考察している。
つまり、学生時代(仏教の講義を専攻していた)から仏教には興味、関心をもっていたこともあり、知識としては理解していた。ただほとんど忘却していたが。。。
悟りに到った者は、その目覚めを自分だけのものとせず、他の人々に伝えてこそ、『真の自覚』を得る。
少なくとも店員さんに・眼施・和顔施・言辞施・身施を施せたのかもと考えると、
心なしか気持ちも晴れ晴れしくなる。
2024年10月スタート!
すでに2日に変わってしまったが、2024年10月に突入した。12月なんてあっという間だ。あの庭木の伐採事件から1年が経とうとしている。
今日、亥鼻のセブン女性店員さんが半袖だったので、「若いねぇ~、もち肌ですねぇ~」「30代じゃないの?若いよぉ~」おやじ丸出しの雑談を交わしてしまった。でも笑っていたから良しとしよう。くだらない話で気持ちが晴れてくれたなら…
図書館にて司書と「(前倒しで個室入室しても)今日は大丈夫でしょ?」「この間、涼しくなったので混んでた。みんな涼しくなると勉強したがるんだねぇ~」
千葉演劇を見る会の事務所へ、事務員の角田さんと演劇「コルセット」の感想を交わしあった。「会議に参加したらいいのに…」その後話の話題があっちこっちに。役者のキャラクター(カバちゃんの名前が出てこなかった)~衣装~下着~クレーマー~ファッション~芸術~フランス~パリオリンピック~宮崎駿の「風たちぬ」
島忠ホームの店員との会話
盆踊り巡り紀行 2023
●8月12日 下北沢、中野
今日もどこかの盆踊りへ !
ノートレ、オープンマインド、貧富格差、年齢、肩書き関係なしのフリーダムな世界へ❗️
東京音頭、炭坑節、しもきた音頭、ドラえもん音頭、ダンシングヒーロー 完璧!
●8月15日 浦安
ひとつの振付をおぼえきるとアレンジを加えたい欲求をおさえきれず即興で自分の好きな振り
(例えば月[月をつくって見上げる]、波[掌をひらひらさせる]、回転[回る]とか…)をいれたくなってくる。
すると周囲には好き勝手に踊っているようにみえるのだろう?
近くにいる、踊れない? 子ども、若者、子連れママさん、パパさんが
ひとりまたひとりと輪に入ってくる。思い過ごしなのか?
自己意識が拡張していくのがわかるから面白い。
追伸:今年から創作紙芝居を再開しました。
●みつわ台 制覇!
●8月18日 都町
盆踊りと一言でいってもその地域の住民が集い、踊るわけである。
地域色が垣間見れるのも楽しみの一つだ。
昨夜の会場は広く、キッチンカー(スペースがなくなる)もなかったのは良。
が、お偉いさんの紹介、挨拶(町内会長、県議会議員、市議会議員、国会議員など)の
儀式時間が長く、踊る時間は正味1時間弱ぐらいだった。
しかも曲がなってもなかなか輪ができず、最初のほうのダンシングヒーロー
(唯一おはこ曲)なんて、なかなか踊る人が集まらず、
おわって周囲を見渡すも…ひとがいない。
向こう側には何人かいた気もしたが。。。
休憩時、やたら視線を感じたのはあのことと関係あったのかなかったのか?
(先日の会場は玄人しかしらない曲が多く、ほとんど即興で踊ってやった)
●浜野
1時間ほどの遅れで休憩中に到着するも
櫓ない!
近くの人に確認するもやはりそうらしい。
休憩中、仕方なく、会場を散策する。
懐かしさに誘われ露店でラムネ購入。
栓をあけるとき人差し指を軽くきってしまった。
「けっこう出血しているねぇ…」とお優しい女性店員さんが
バンドエイドをわざわざ探してきてくれて、
手当てしてくれた。ありがとうございました。
しばらくするとどこからともなく曲らしき音色がきこえてくる。
これが踊りの曲?なわけないだろう?
本部テントのなかにいたスタッフに
「なんという曲ですか?」と訊ねると
めっちゃうけていた。
隣のお堂から流れる読経だったのだ。
抽選会→子どもたちへのお菓子配布と休憩時間は過ぎていく。
踊りは深い。たかがと思うことなかれ。
わからない振りをカバーするため踊り子
さんの間に入ることにしている。
その玄人の美人踊り子さんに’
『楽しそうに踊ってますね。素敵ですよ』と。
軽くいじられたかなと…
あの微笑みからよしとしよう。
それでも踊りつづける胆力と想像力の勝利に乾杯🍸️✨🍸️
●23,8,20
湾岸エリアの盆踊り会場。 真砂
巨大マンション群が建ち並ぶエリアだけあって
家族連れの人・人・人。
「ここはグルメフェア会場か!」と見間違うほど
多くのキッチンカーが集結し、櫓周辺を囲んでいた。
そのためか心なしか踊りの輪も小さく感じられる。
盆踊り開始早々、若者は少なく、
場が温まってくるとひとりまたひとりと
輪に加わっていく様子を横目に踊るのもこれまた一興。
今夜のテーマはストーリー仕立てで感情を込めつつ踊れるか?
ちなみに初の盆踊り版の”恋のフォーチュンクッキー”
は老若男女問わず盛り上がる!
リズムって?
音と音の間に存在する無音(裏の音)。
ひょっとして心の音か? だとしたら
表の音の強弱、高低、余韻の長短に
より心の音もまた変化するってことか?
さらに表の音と表の音の間にひとつ音を刻めば、
また裏の音がうまれ、
そのまた表の音と表の音の間にひとつの音を刻めば
そのまたチョー短い裏の音がうまれる。
そこで”はっ!”とする。
ひとつの音が価値を持つのは、
音のしない裏の音の価値を為しているってことか?
それを際限なく繰り返していくと
点から線のような長音(波)へとつらなっていくのか?
「まじめか!」ひとりつっこみをいれつつ、
こんなこと、始まるまでの空白の時間、物思いにふける。
”余白の美”とされる日本画が脳裏をよぎる。
※写真は巨大マンション群に出没した盆踊り会場
●8月27日 地元の盆踊り。
さまざまなイベント盛りだくさんであったが、盆踊り時間は短かった。
が、プログラム見る限り、市民参加型の内容になっており老若男女(とくに子供、若者)が楽しめ、
地産地消的なアットホーム感は充実していた。
そんな中でまた踊ったわけである。
今回も中心メンバーは玄人の踊り子さん。
そして地元高校生のダンス部で構成されており、一般参加もOKというアナウンスで躊躇することなく、
”待ってました!”とばかりに結界(自身が勝手に名付けた、傍観者とパフォーマーとの境界線)をまたぐ。
この結界をまたぐと世界が一変する!
これは経験したものでないと、わからない。
が、誰にも一度や二度経験のあることかとも。。。
気持ちいい!
あるいは、価値観のブレークスルー? 圧から身体の自由な感覚を体感する?
突然、列の前に同年齢ほどのミドルのお父さんが入ってきた。
が、 なぜか1曲だけ踊って軽い笑み残し、立ち去っていった。。。
どうしてかは。。。わからない。。。
いったいあの笑いはなんだったのか?
それでも胆力でもって踊りつづける。
すると今度はアフリカ系外国人が「隣で踊ってもいいですか?」と入ってくる。
かたことの日本語で「あなたとなら踊れそう…」的なことをもらしていた。。。
やはり安心できるのだろう。
そして、本日のいちばん印象に残った出来事が起こったのだ!
ほとんど十八番となりつつある”千葉踊り”を
勝手なストーリー仕立ての振付でおどっていると
和服姿のおやじが私の隣で踊っているではないか?
しかも肩を組んできたぞ!
だれだ?ついに変人が変人を引き寄せてしまったか?!
おそるおそる横目でみやると町内会長のiくんだった!
すぐにいなくなったところをみると
「会長、立場がありますんで…」
とかなんとかいわれて、だれかに止められたのだろうか?
でも、気づいてくれ、一瞬でもいっしょに踊ってくれただけでも感無量だ!
踊る指先も伸びてくるってもんだ。
そのあともイベントはつづき、おおとりでその同級生率いるバンド(Daddy's)が、
コロナ後のイメージチェンジを果たした、大人の演奏を披露してくれていた。
後日に踊る画像を友達が撮っていてくれていて、送ってくれた。
ぶれぶれですが、ありがとう!





映画「怪物」を鑑賞した
自分のことをわかっているようでいて、もっとも大切なところはわからない。
例えば初恋。小さい頃、どうしてこんなにもひとをすきになってしまうのか、不思議でしかたなかった。
「なんでこんなにドキドキするのか?」
自分、いつから変わったのかわからないが、いまでは当時のようなときめきはなくなっている。
この映画は、こどもの抱える孤独の悲しみ、不安や怖れに対峙しながらも、ひたむきに夢ある楽しい世界を描いている。その姿にこみあげるものが残る。そんなノスタルジーな思いが琥珀色の写真とともに甦る映画だ。
本作は、ある時間の流れというプロセスを3つの視点から描いている。
ひとつはシングルマザーで、こどもを溺愛する母親の視点。
下草の生い茂る、深い森のなかをあいている子どもの足(象徴的イメージ)から始まるオープニング。なんらかの隠喩であろうか? ことが起きようとしている怪しくも不穏な空気が漂う。
シーンは一転。
自宅の窓から火事をみている母親と子供。
自身、火事を見慣れている親子の演技に違和感が残った。
普通に花火でも眺めているかのようなのだ。
常識的な大人ではなさそう。
日常風景のシーンから次第に母親は不可解な行動をとるわが子への一方通行な眼差しや決めつけ、思い込み(水筒の泥水、髪をきる、車から飛び降りる、廃線跡地への失踪など)からわが子がいじめられていると思い込でゆく。
ふとシーンの描き方に意識が移っていく。どのシーンも描き方がユニークである。
映像を観るとはどういうことかと示唆してくれる。
作中で結局何が起こっているのか?
観る者に腹に落ちない居所の悪さのみが残る。(ただ、不穏さ、しっくりこなさ、腑に落ちない)すっきりしない、遺物を飲み込んだあとのような感覚がつづく。どこでカタルシスされるのか?
本作では、母親の手前勝手な思い込みをもとに行動を起こし、学校にのりこんでいく。
が、事務処理のような非人間的な対応をする、校長、教頭、担任に、母親は人間としての対応を訴え、怒りを爆発させる。
ここに描かれているのはどこにでもころがっていそうな教育現場である。
ことを大きくしたくない校長、モンスターペアレントを怖れる教頭。
ことなかれの対応を貫きとおそうとしている教育者たち。
どこにでもいるであろう大人たち。
母親の視点からの描き方により問題をかかえる学校、担任対親の構図が示される。
一転、唐突に担任からの視点に移行し、担任と生徒の関係が浮き彫りにされる。
すると自身が勝手に描いていた担任像が剥がされていく感にしてやられる。
「この担任に、こんな一面もあったのか!?」と。
いままである一面でしか見ていなかった思い込みにはっとさせられる。
ひとは観たいようにしか見ようとしないものだ!
本作の描き方に視点がうつる。所作、セリフ、音、背後の音、子どもの遊び、美術、装飾、効果音はクリエイティブでアイデアに富んでいる。シーンごとにしっかり練られているのが伝わってくる。
ただ安藤サクラの演技(”万引き家族”は圧巻だった)の一貫性には、???。つかみきれていないのか?
というのは、作中では火事を平静に眺める、モンスターペアレントの役と理解したが、彼女の一部の演技は狂気性は希薄であり、常識のある情愛深い母親に落ち着いている。
敢えてそのように演技したのか?
担任の視点に話をもどそう。
ガールズバーに通っているという噂、信頼関係の薄い恋人との関係をもつ担任。
ささいなトラブルやすれ違いによりひとりの生徒に体罰をしている容疑をかけながら、さらなる誤解をつみ重ねていく。
編集上、ストーリー性を極力なくし、こうだからこうなったという安易な図式を排し、コラージュ風に描くことで、ひとりひとりの観る側に理屈やストーリーでなく、感じることを求めてくる。新しい映画のスタイルを見た感が心地よい。
結局、自分を守るため、友達をまもるためのこどもの嘘言により、学校vs担任、生徒vs担任、親vs担任、社会(マスコミ)vs担任、二項対立という構図や組織というシステムに抗うこともできず、やってもいない体罰を認め、担任は辞職に追い込まれていく。
母親の視点ではわが子がいじめられているという関係図で描かれていたが、実はわが子は自分を守るため、友達を守るために苦しんでいたのだ。
しかもいじめられている子に寄り添い、守っていたのである。
★そして、いじめられている友達に好意を寄せていることに気づき、戸惑い、自己嫌悪に苦しんでいく。
自分をコントロールすることもできず、不可思議な行動へ突き動かされていく。
★いじめられっこも、その子のやさしさや苦しさに寄り添いながらふたりの優しさがありのままをうけいれ、心満ちる世界へと誘いあっていく。
ふたりは誰にも打ち明けられないほどのガラス細工のような優しさを抱えたまま、ある独自の行動をとりつづける。ライターで物を燃やしたり、猫の死骸を見せたり、廃線跡地の秘密基地を教えたり、ゲームやパチンコで遊んだりと。
しかもいじめられている子を守る行為により、反対にいじめている嫌疑を背負うことになる。
この映画はいくつかのテーマも孕んでいる。
LGBTQの性的マイノリティ問題、たまたま再読していた「仮面の告白」に一部似たシーンを思い出す。自我肥大した思い込み、いじめ、体罰など。そして、結末にむけ、3つ目のこども側からの視点により、徐々に真相が詳らかになってくる。こども世界の純粋で、それでいて心優しくて、残酷で、孤独でいながらも子どもなりに喜び、ファンタジーに満ちたこども世界の祝祭には心救われる。
森の中の暗闇から光溢れた原っぱをふたりが光につつまれながら疾駆するシーンはこみあげるものがある。
自分すら知らない深い深い森のような深部から人間の奥深さ、複雑さ、奇怪さを潜り抜け、希望ある前途ある未来を垣間見せてくれる。
エンディング近くに心の傷をかかえている校長からある言葉が告げられる。
「だれかにしか手に入らないものはしあわせっていわない」のセリフに強いメッセージが凝縮されている。
幸せは、ひとりだけで手にできるものではなく、みんなが手にすることができてはじめて幸せといえるのだから。